・バングラデシュ寺子屋学校校舎建設及び付帯事業(2005年度)
(対象地域:バングラデシュ、ジャマルプール県ボクシガンジ地区
コネカンダ村)
・バングラデシュ寺子屋学校校舎建設(2006年度)
(対象地域:バングラデシュ、ボリシャル県カティラ地区
パトリ村)
・バングラデシュのサイクロンにより被害を受けた校舎復旧事業(2007年度)(緊急支援)
(対象地域:バングラデシュ、ボリシャル県カティラ地区
シャチムリヤ村)
・バングラデシュ寺子屋学校校舎建設(2009年度)
(対象地域:バングラデシュ、ジャマルプール県ジャマルプール地区
ダポネショール村)
中川英明さん(理事・事務局長)、井上儀子さん(事務局)
- - 活動のはじまりと団体が設立されたきっかけを教えてください。
きっかけは、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)で活動していた船戸良隆牧師とバングラデシュ人の女医ミナ・マナカール女史の出会いでした。イギリスで学んだマラカール女史は、病院で働きながら、地域のお母さんたちを対象とした公衆衛生啓発セミナーの実施などの活動を行っていました。彼女はお母さんたちが同じ病気で病院に度々来ることに疑問を抱き、予防医学に取り組み、さらにこの活動を通じて、お母さんたちが読み書きができないためにメモも取らず、資料を配布しても持ち帰って読むことができない状況であることを知り、教育の必要性に気付きました。そして彼女がNGOを立ち上げて寺子屋運動を始めるにあたり、船戸牧師は日本で協力者を募って、その支援と共働のために活動を始めました。1990年にマナカール女史はバングラデシュにて現地NGO「Basic Development Partners」(以下「BDP」)を設立し、日本では船戸牧師を中心に「アジアキリスト教教育基金」(エイセフ)ができました。
- - 当時のバングラデシュの教育について教えてください。
当時、バングラデシュの識字率は、国全体で30%、女子は17%と大変低い状況でした。国際識字年の1990年、同国では「初等義務教育法」が制定されました。翌年の1991年に首相に就任した女性のべグム・カレダ・ジアは教育に力を入れ、就任後すぐに同国の義務教育期間を5年間と定めました。
1993年、バングラデシュ政府は各村に1校の学校を建てる計画を打ち出しましたが、政府、NGO、イスラム系(マドゥラサ)の学校を合わせても必要とされる学校数の半分しかありませんでした。中には、約3時間歩かねばならないほど遠くに学校があることもありました。現在は、全約8万6千村のうち、約7万村に学校がありますが、まだ十分ではありません。
- - 学校はどのように建てられるのでしょうか。
BDPとエイセフの支援方法では、まず村長の家の軒先や村の一角を利用して、村人に自分たちで幼稚園(プレ・スクール)や小学校1年生の教室開設のための場所を確保してもらいます。幼稚園(プレ・スクール)から始める理由は、小学校1年生ではすぐに勉強が始まってしまうため、その前に学校に行く習慣を付けたり、基本的な学習を行う必要があるからです。また、子どもたちは家のお手伝いをすることを求められており、「遊びに行くなら学校に行かなくてもよい」と反対されてしまうことがあります。「学ぶ場所」という印象を与えるために、「プレ・スクール」と呼んでいます。
雨期には(雨風をしのぐため)校舎が必要となりますが、村で入手可能な材料を利用して、自分たちで建設してくれるように促します。村人によって校舎が建設され、学校を運営していく熱意を確認してはじめて、レンガづくりの校舎を作るための支援を行います。
- - どうして後から(レンガづくりの)校舎を支援する活動を始められたのでしょうか。
バングラデシュには沢山の援助が外国から入り建設事業が行われていましたが、建設が中断したり、建設後に利用されず、廃墟になったものがありました。また、建物が壊れても「また外国人が来て、建ててくれるだろう」と考え、建設物の維持管理の責任を自ら担おうという様子がないことを見て、外国人が建ててしまうと依存心ばかりが高まっていくのではないか、という問題意識が出てきました。そこで、村の人たちが自ら建てたものであれば、自然と自分たちで維持管理をするだろうと考え、まずは村人に自分たちで校舎を建ててもらうこととしました。
エイセフは、現地パートナーのBDPが頻繁に村を訪問して、何度も住民と話し合い、ソフト面でのサポートを提供しつつ、村人たちが自ら村の委員会を作って自分たちで学校を運営をしていく仕組みを大切にしています。こうしていくことで、「自分たちの学校」という意識を村人たちは高め、椅子が壊れたら自ら作り直すという姿勢が生まれてきます。今、村の人々は「日本人が建てた学校」ではなく、「おらが村の学校」と表現しています。2009年度に今井記念海外協力基金の助成を得て建設支援を行った、北部ジャマルプール県にあるダポネショールの学校をレンガづくりにしたときの式典では、「私たちの村の学校がついにレンガづくりになりました。(日本の皆さん)協力を有難う。」と言われました。
- - そのダポネショール校は何年から始まり、以前はどんな校舎だったのですか。また、どんな子どもたちが通っていますか。
この学校は2001年に開設され、以前の校舎は、村にある素材、主に「わら」で出来ていました。しかし後に、壁は台風で飛ばされてなくなってしまいました。
このダポネショール校には収入が低い家庭の子どもが多く、近隣の3村から約200人の子どもたちが通っており、この地域にとって大切な学校です。地域住民の主な生計手段は農業ですが、土地を持っている人は少なく、農業労働者として他の人の畑で働いたり、畑を借りたりしています。
- - 「寺子屋学校」の先生には女性が多いと聞きました。
先生の多くは、高校(10年制)を卒業した人で、女性です。75校ある寺子屋学校の先生約300名のうち、男性は6人だけです。2009年度に今井記念海外協力基金からの助成で建設支援を行ったダポネショール校には男の先生が1人います。
活動を始めた当時、とくに女性は識字率が低く、14〜 15歳で結婚させられるなど早婚が多いという現実がありました。そこで、女子の教育を促進し、婚期を遅らせるために、高校を卒業した女性を先生として採用していました。こうしたことで、女性たちは「働くことができる」という喜びを得て、自らの収入があることで家庭内での発言権をもつことができました。また困ったときに先生に相談に来るなど、徐々に先生の存在が村の人々から認められ、活動を開始してから10年ほど経った頃、先生方が活き活きとしてくるといった変化が見られました。
- しかし、未婚の女性たちは、結婚すると別の村や町に引っ越したりして、先生を辞めざるを得ない場合が多く見られます。そこで、高校までの学歴がある地元のお母さんたちを先生として採用するケースも増えてきました。
- 当初は、先生の夫が怒鳴り込んできて、教材を箱ごと外に投げしまい、「すぐに家に帰れ」と怒鳴るようなこともありましたが、5年前(2005年)、変化を象徴する、ある出来事がありました。 あるお父さんが息子の手を引き、「勉強が分からない。悪いが教えてやってほしい」と先生に頼みにきたのです。自分より年下の女性に頭を下げて物事を頼むということは、バングラデシュの伝統に縛られた男性にはなかなかできないことですので、この出来事は先生が尊敬され、村社会の中で認められる存在になった証といえるでしょう。「寺子屋学校」の活動を開始して20年が経ち、どの村の学校でも、先生たちの存在が村の人々から一目置かれるようになったと実感しています。
- - 学校に行くことを勧めるのは大変ですか。退学することはありませんか。
最初は「学校教育は大切だ」と親や周りの大人を説得することが大変でしたが、今では「子供が小学校に通うのは当たり前」という意識が普通になりつつあります。地域差もありますが、統計によっては、初等教育の就学率を
98%としているものもあるほどです。しかし途中で退学するケースも多く、5年制の小学校を卒業できるのは入学生の半分くらいです。
10歳を過ぎると、「大体文字も覚えたし、もう良いだろう」と、働き手として認識され、学校を中退して働きはじめる子どもたちも多くいるのが実情です。
子どもたちの仕事は、縫製工場での労働やリキシャの運転手、タバコづくりなどの内職など、さまざまです。「寺子屋学校」では、授業時間を午前のみ或いは午後のみのシフト制として、働く子どもたちも学校に通うことができるように工夫しています。
- - 2007年度の緊急支援について
2007年10月に起こったサイクロンによって、南部のボリシャル地域にあった寺子屋学校8校で校舎が壊されたため、今井記念海外協力基金の協力を得て、そのうちのシャチムリヤ村の学校では校舎をレンガづくりに建て直すことができました。頑丈な作りの校舎になったことで子どもたちや住民への励ましとなり、「安心」を与えることができました。この学校は、今後、台風の時に地域の避難場所としても利用できます。除幕式では、「サイクロンが再び襲って来てもこれでもう大丈夫」という内容の替え歌を子どもたちが作り、披露してくれました。
- - 今後の課題は何ですか。エイセフとして達成したい夢を教えてください
- 学校に行くことができなかった子どもの問題を乗り越えてきましたが、小学校教育が普及してくるにつれて、入学者の半分程度しか(中退によって)卒業できないことが、次の課題として浮上してきました。今後は、初等教育修了に支援の焦点を移し、せめて小学校は卒業するのが当たり前となってほしいと考えています。
- バングラデシュは、国の経済をはじめ様々な社会の変化が現在起きていますが、それに翻弄されずに、教育が根付くための支援を続けていきたいと考えています。そして、バングラデシュのことを日本の人たちに知ってもらい、アジア全体が共同体として繋がっていること、またアジアの現状が日本の生活と繋がっていることに日本の人たちにも気付いていただきたいのです。
- - どうもありがとうございました。